Suimy時代に書いた即興小説に少し加筆したお話。
純白からは程遠いくすんだ銀盤を指が滑る。そこから奏でられる音色もまた、どこか淀んでいる気がするのは気のせいだろうか。
「よくもまあ、ここまで使い込んだものだよ。これが我が家に来たのはええと……母が子供の頃だったかな」
「ええ。奥様が幼い頃……そう、あれは七歳のお誕生日の時だったと記憶しております」
懐かしげに目を細める執事の口からは母の幼い頃のエピソードが次々と語られる。彼女自身が自分に話したのと同じように、聞けば聞くほど幼少期の自分にそっくりではないか。
気が強く意地っ張りで、負けず嫌いで。一度言葉にしたことは頑なに曲げない。彼自身が父親に反発していたのと同じように、母もまた父親に反発していたらしい。
互いに名家の長女長男として生まれ、性別に関係なく家を継ぐことを生まれながらに決められている。二人は揃いに揃って生まれながらに決められたレールの上を歩くことを嫌い、家を飛び出した。それでも二人は同じようにこうして家に戻り、嫌っていたはずの家を継いでいる。
「僕が女だったら、母もさぞかし喜んだ事だろうね」
娘が生まれたらピアノを習わせたい。母はずっとそう言っていたという。しかし自分を産んで母はもう子供を産めない体になってしまった。
その事実を知った時、この際男でもいいからと青年にピアノをやらせようとした。しかし男がピアノなど。周りの子供たちは外を駆け回り剣術や武道の稽古をしている。当然育ち盛りの少年は周りと同じ道を歩みたがった。
しかし親はそれを許さなかった。それもそうだ。長きに渡る戦争も終わりを告げたこのご時世。護身術以上の武術を学んだところで何の役にも立ちやしない。だからこそ、母はピアノを習わせたがった。そして嫌々ながらも自分もそれに従った。自我が確立するその時までは。
いわゆる反抗期というものだろうか。成人の儀を済ませた青年は置き手紙を残し、一人の従者を連れ外に飛び出した。
屋敷の中、街の中しか見たことのなかった青年にとって外の世界というのはひどく新鮮なもので、そして残酷だった。
戦争は終わった。それは事実だ。だが、その傷跡が癒えたわけではない。
荒れ果てた大地に復興作業が続く城下町。今日の宿すらもない、満足な食事もとれない世界は青年の想像とは正反対だった。けれども、失望したわけではなかった。
身寄りのなくなった子どもたちや復興作業から帰宅した大人たちの集うホールで彼は銀盤を叩いた。それはこの国に古くから伝わる民謡、この国に生まれた世界的にも有名な歌手の歌。クラシック、ロック、童謡。
この国に暮らす者ならば誰もが一度は耳にしたような曲や、心を安らげるための落ち着いた曲から沈んだ心を鼓舞するような激しい曲まで。彼の記憶にある限りの曲を奏で続けた。それが少しでも彼らの癒やしに繋がるのなら、と。
「あの時ようやく母が必死になって僕にピアノを教えようとした理由が分かった気がした。母に聞いた時笑っていたけど、きっと僕が家を出て行くのを見越してたんじゃないかって今でも思う」
「……奥様は一部では名の知れたピアニストでもありました。そしてピアニストを目指したきっかけはとある作品でした。つまりは、そういうことなのでしょうね」
「僕は母の掌で踊らされていたわけだよね」
「しかしそれを選んだのは他でもない、貴方自身」
「ああ、そうだな」
銀盤を滑る指は軽やかに、しかし音色は辿々しく。
「ところで奥様の葬儀に顔を出さなくていいのですか?」
「そうだな、母の好きだった曲を一曲、弾いてから」
「……奥様もきっと喜ばれることでしょう」
「だといいね。この子もそろそろ寿命だろうし。せめて最期に、ね」
どこか遠くに聴こえる鐘の音に合わせ、青年は再び銀盤に指を滑らせた。